知覧特攻隊 その1

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元は飛行場を備えた学校

「君の幸せだけが 願い」

昭和16年 12月 8日

日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカを主とする連合軍との戦争が始まりました。

鹿児島県は、本土最南端という地理的条件から、アメリカ軍からの艦載機、爆撃機による激しい空襲に曝されることとなりました。

航空特攻は、昭和19年10月、

フィリピンでの戦闘で

海軍が初めて実施。

しかし、戦況は次第に悪化し、

陸軍もそれに続くことになるわけですが、

本土を守るための最後の砦となる沖縄に

最も近い場所であった知覧飛行場が

出撃の場所となったのです。

当時は、国のために忠義を尽くすという教育が行われていたため、全国各地から若者たちが責務や責任感から知覧に続々と集結しました。

国を、父を母を、兄弟、

そして大切な人を守るために。

沖縄戦で戦死した陸軍特攻隊員のうち、約半数にあたる17歳から32歳の439名が、知覧から出撃したのです。

その作戦任務は、

250㎏の爆弾を付けた飛行機で、

敵艦に体当たりすること。

それは「死ぬ覚悟」ではなく、

最初から必ず死ぬことが決められいる作戦でした。

特攻は、知覧の他、

台湾、熊本基地からも出撃しています。

(その2へ続く。)