11月21日 「一律」という分厚い壁の向こうに「独自」の人生が消えてしまう…

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11/19 長崎新聞

いかにプロフェッショナルな介護サービスを提供しても、プロフェッショナルで効率的であればあるほど「一律」を感じる…。

確かにそうかも知れません。日本独自の療養型病院は、何もしないほど収入が増える仕組み。だから豪華なハードと効率的な一律の介護サービスで、それを選択した家族は自分を納得させるしかない。

その中で本人はゆっくりと衰弱し、死を待つだけ…。

療養型病院は「死の待機場所」なのか…という問いかけに、私は返す言葉も浮かんでこない…。

高齢者の場合は「時々入院、ほぼ在宅」と言われるように、まず生活があって、そこに介護や医療が係るのが国の示す理想であり、確かに我々もそれを常に目指すべき。

療養型病院には生活はない。だからこそ、なんとも言えない無力感を感じられたのでは?と思います。

昨日、ひまわりのご入居者さんで、認知症とお病気が徐々に進んでこられている方の娘さん方々がお見えになり、私たちのケアマネさんが、「ご自宅におられる時、何でもしっかりストックするようなところはありませんでしたか?」とお聞きし、「そう、そうでした!」と。「たぶん、ご自分のお部屋で落ち着かれないのは、ストックを探されても、それが見当たらず不安になられてるのでは?私たちが、無駄に置いていると汚されるからと別にしたことが、ご本人さんには無駄ではなかったのでは?だから汚されて無駄になるかもしれないけど、多目に物をストックしてみましょう!」と話してました。まさしく切れてしまった糸をたぐり、また結び直し、元の一本の紐にはできなくとも、それに近づける。

私たちは、ご入居者さんのこれまでの生活と、ご入居中の今の生活が、切れてしまわないように、切れてしまった糸を一本一本結び直すために、面談やアセスメント、モニタリングを繰り返します。

私たちももう一度、業務一つ一つの目的と意味を認識し直し、常に切れた糸を一本一本結び直し、みなさんの人生の時間のそれまでとこれからを、一本のしっかりとした紐に紡いで行かなければなりません。

そういう時間を積み重ねることで、我々も本当の介護のプロフェッショナルとしてお役に立てるようになるはずです。

以下は野田さんのブログです。考えさせられる、また私たちが考えないといけない問いかけがあります。

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