令和3年8月19日 いのちを渡す、引き継ぐ。

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長崎の精霊流し

去る15日はお盆の最終日、精霊流しでした。毎年8月15日は仕事から帰宅途中たくさんの精霊船を眺め、車の下に転がり込む爆竹の音にドキドキワクワクしながら、交通規制の中、路地をぐるぐる回り家に帰る…そんな毎年でした。

しかし、今年は見かけた精霊船はひまわりを出てすぐ一隻のみ、長崎では例年通り交通規制はあったものの、一隻も会いませんでした。

びっくり!生まれてはじめてかも…いやはじめてです。長崎を離れていた学生時代もお盆は帰省してましたからねぇ。なんか、寂しいお盆でしたねぇ。雨とコロナの影響でしょうか。

先日のブログでご紹介した葉っぱのフレディ…読んで頂きましたか?

内容が深く読み込むのに苦労し、やっと皆さんにご紹介しましたが、まだ十分伝えきれてない。

…明け方フレディは迎えに来た風にのって枝を離れました。痛くもなく こわくもありませんでした。

フレディは 空中にしばらく舞って それからそっと地面におりていきました。

そのときはじめてフレディは 木の全体の姿をみました。なんてがっしりした たくましい木なのでしょう。これならいつまでも生きつづけるにちがいありません。フレディはダニエルから聞いた”いのち”ということばを思い出しました。”いのち”というのは 永遠に生きているのだ ということでした。

…フレディは知らなかったのですがー

冬が終わると春が来て 雪はとけ水になり 枯れ葉のフレディは その水にまじり 土に溶けこんで 木を育てる力になるのです。

“いのち”は土や根や木の中の 目に見えないところで 新しい葉っぱを生み出そうと 準備をしています。大自然の設計図は 寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。

何のために生まれたの?の疑問と同じように死んでしまったらどうなるの?

死んでしまえばその人はこの世からいなくります。

しかし、いのちの価値はそこで終わらない。フレディのいのちが死を迎えた後も次に芽吹く葉っぱの栄養になるのと同じように、私たち人間も同じ。

何のために生まれたんだろう

の疑問に、ひとを喜ばせたり、ひとと楽しんだりしたよね…それはどんなに楽しかったことだろう、どんなに幸せだったことだろう。とダニエルは答えました。

そう、生きているとき人は誰かと向き合い誰かに影響され、誰かに影響している…良くも悪くも…。思い出もそこに誰かがいるということは、相手にとっても同じ思い出…楽しい時間ならきっと同じ思いを共有しているはず…。

人は死んで存在がなくなっても、一緒に過ごした、共有した時間と共に人の記憶、影響は残るのだと思います。

楽しかった思い出、辛かった思い出。

教えてもらったこと、姿をみて学んだこと。

ケンカしたことも、泣いたことも、叱られたことも。

存在がなくなっても残された人々は思い、影響されるのです。

先日、奥様の法要に入居者の方をお連れしました。

奥様が亡くなられた時も、お通夜とお葬式にお連れしました。

コロナのために式にはご列席できませんでしたが、式の始まる短い時間、ご親戚、ご家族とお会いになることができた。

奥様の死を悲しみ、弔うことはもちろんですが、長らく会うことができなかったご家族、ご親戚の近況を知りご自分が元気でいるよと伝えることができたことにも大きな価値があると思います。奥様の死はその方とご家族を繋ぎ再開の喜びを与えてくださった。

お釈迦様が亡くなられた日の夜、お弟子さんたちが集まり一晩語り明かしたそうです。お釈迦様の思い出、教え…そしてきっとお釈迦様がいなくなったこれからのことも。たしか、これが通夜の始まりじゃなかったかな…?

長崎の精霊流しはとても賑やかです。よそから来る方はびっくりされます。これって本当に亡くなった人を弔ってるの?

船作りはお盆に入ると急ピッチで進められます。お仕事休んで親戚集まって…もちろん飲んで、食べて、しゃべって。話のネタは船の主の思い出話に、子どもの話、仕事の話、その他諸々…もちろん旦那の話に嫁の悪口も…。

仕上げは15日の本番、流しです。もちろん一杯ひっかけてさあ、出発。

花火に爆竹、鐘の音に「どーいどーい」の掛け声。お墓でも同じく花火に爆竹、並べられた迎え火の提灯。とにかく15日は賑やかなんです…お盆だけに…。

私たちは入居者様より先に亡くなることはほとんどありません。

後に残る立場。入居者様は今の社会を築いて来られた方々、歳をとろうが人生の先輩であり学ぶべき方々。

残りの人生を預けられた家族に替わり命を預かるわけで、決して「管理」という言葉の下で生活を強いられてはならない。私たちにはいのちを引き継ぎ次につなぐ役目があるはず。

生まれてきて良かった。次の世代へ穏やかに”いのち”を引き継ぐためにも、私たちも今と向き合い、真摯に目の前のひとと向き合わなくてはならない…そう思うのです。